お知らせ

駐日大使による核問題・平和に関する平和市長会議でのスピーチ

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にて エスティファノス駐日大使

エスティファノス エリトリア駐日大使が長崎市で開かれた第7回平和市長会議に出席しました。会議では、サハラ砂漠での核実験がエリトリアの人々に与えた影響や、冷戦時代の核問題に触れながら、平和を希求するスピーチを行いました。スピーチ全文は、以下になります。


第7回平和市長会議総会(2009年8月7日‐10日 長崎市)におけるエスティファノス・アフェウォルキ駐日エリトリア大使スピーチ−アスマラ、マッサワ両市長に代わって

 ご来場の皆さま
 本日はこの重要な会議において、駐日エリトリア大使としてだけではなく、一人の年長者として、また2008年に平和市長会議に加盟したTEWELDE Kelatiアスマラ市長およびFANA Tesfamariamマッサワ市長を代理してお話させていただきます。
 まず初めに、第7回平和市長会議総会において、日本国政府と国民の皆さま、また過去に例を見ない環境や核の問題について世界の不安が高まっている今開催されているこの重要な会議の参加者の皆さまに対して、二市長の心からの団結のメッセージをお伝えしたいと思います。
 私は1947年9月にエリトリアの首都であるアスマラで生まれました。広島と長崎の原爆投下地点からは遠く離れた場所で生まれましたが、いまだに子どものころのことを覚えていますが、その後のニュース、恐ろしい写真や話、この悲劇から生まれた恐怖は、深く我々の心を打ち、現在のエリトリアに存在する人道主義の誕生、成長、そして普及に影響を及ぼす傷跡を残しました。ですから、アスマラ市、マッサワ市、そして私の世代を代表してこの会議で証言し、メッセージをお伝えすることが私の義務だと確信しております。 我々は皆、この重要な会議のうちの短い時間であったとしても、核兵器の歴史について思い出し、考えることが重要だと信じています。私はこの会議の参加者の皆さまと、私の周りでエリトリア国民に起こった2つの史実を共有したいと思います。
 1つ目は、1960年2月14日にフランスがアフリカのサハラ砂漠で行った大気圏核実験です。この爆弾は広島に投下されたものの4倍も強力でした。この実験が当時のシャルル・ド・ゴールフランス大統領に大変な喜びをもたらしたことをはっきりと覚えています。しかし、この出来事は、私の周囲の人々には大きな悲しみをもたらしたということをこの会議で証言することができます。科学的な因果関係を証明することはできませんが、ちょうどこのころ、近隣の人々がみな一斉に奇妙な病気や脱力症状に襲われたことをはっきりと覚えています。謎の病気は、アフリカで老若男女を問わず野火のように広がり、アスマラでも人々は何日も、ときには何週間もベッドに寝たきりになりました。アスマラ市では、昔より毎年、温かい砂塵を乗せたサハラ砂漠からの風が、雨をもたらすインド洋からの湿気を含んだ風とぶつかり合います。核に汚染された砂塵が加わったこの時期に何が起こったのかは想像に難くありません。フランスは、その後17回の大気圏核実験を行い、これにより、人間、環境、生態系が受けた被害は間違いなく恐ろしいものです。ヨーロッパの奴隷制と植民地主義という非人間的な行いに苦しんだ大陸は、大量破壊兵器により再び静かに制裁を受けたのです。
 2つ目は、冷戦時代に起こりました。マッサワ市とその周辺は1980年から1990年の間ソビエト連邦の海軍により占領されたのです。ダフラク諸島にソ連海軍基地がありました。ソ連と冷戦時代のソ連の同盟国であるエチオピアは、エリトリア独立運動により、1990年にダフラク諸島、紅海沿岸、紅海の島々の支配権を失いました。1990年にエリトリア人民解放戦線がフェンケルの戦いに勝利し、ソ連の潜水艦をダフラク諸島から駆逐した後、港町マッサワは非核都市となりました。
 アスマラ市とマッサワ市は、すべての家族が自由のためにひとり以上の犠牲者を出した後、核その他の大量破壊兵器の脅威のもとで年を経てきました。日本の被爆者とマッサワ市の戦争生存者が2008年10月10日にマッサワ市で交流を持ちました。このとき、自身もマッサワ戦の生存者であるFana Tesfamariamマッサワ市長が、平和市長会議への加盟を宣言しました。1990年のマッサワ市空襲のニュース映像が上映され、マッサワ市の若者が被爆者に空襲の経験を語りました。被爆者側からは当時の写真や衣類などが「原爆資料館」として展示され、マッサワの若者と直接被爆体験について語り合いました。
 この会議の参加者の皆さまに、アスマラ市長とマッサワ市長が、大量破壊兵器を含む、核をはじめとするあらゆる種類の大量破壊兵器を地球上から根絶するための闘いに加わっていることをお伝えすることができ非常に光栄です。また、これら兵器は、2008年3月25日付の毎日新聞で、エチオピアの首都アディスアベバから西に150キロのホルマット兵器工場において、朝鮮民主主義人民共和国が製造、組立て、備蓄していると報道されました。これらの兵器がその地域で、現在または将来において使用されれば、第2次世界大戦時にムッソリーニが東アフリカの人々に対して行った虐殺的行為と蛮行が再び繰り返されることになります。
 ご来場の皆さま
 最後に、結びの言葉としてこう述べさせていただきたいと思います。第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏の核兵器問題に関する発言は、我々皆にとって歓迎すべき変化の風です。2009年、核監視機関である国際原子力機関(IAEA)の事務局長に日本人が就任しました。これら2つの要素により、持続可能な開発、気候変動、核兵器廃絶に関する進路が変更される時期が訪れるでしょう。エリトリアのことわざではこう言います。「剣で攻撃し、相手を傷つけた者は忘れるが、剣で攻撃され、傷つけられた者は決して忘れない。」
ありがとうございました。

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