エリトリア鉄道

エリトリア鉄道について

エリトリア鉄道は,紅海に面する都市マッサワ(写真1)と,高原に位置する首都アスマラを結ぶ路線です。路線距離はわずか117kmにすぎませんが(東京駅−三島付近にほぼ相当),海抜3メートルの港町から標高2342mの高原都市までを,その短い距離で駆け上がるという世界的にも稀有な鉄道です。路線の最大勾配はなんと35‰に達します。マッサワからアスマラまで平均時速20km弱で6時間を要する旅となりますが,大地溝帯のエスカープメントを駆け上がる沿線にはいくつもの絶景ポイントがあり,「アフリカでもっとも美しい車窓を持つ」とも呼ばれます(写真2)。また,1920~30年代にイタリアで製作されたレトロ感溢れる蒸気機関車や気動車(写真3)が今なお現役で運行している点でも稀有であり,ヨーロッパからの観光客や鉄道ファンの訪問が絶えることがありません。

港町マッサワを起点とするエリトリア鉄道

写真1 港町マッサワを起点とするエリトリア鉄道

 

山岳地帯を走る蒸気機関車

写真2  山岳地帯を走る蒸気機関車

 

イタリア製の気動車(フィアット社製リットリナ)

写真3 イタリア製の気動車(フィアット社製リットリナ)

 

路線の概略 — 自然景観と文化景観

現在のエリトリア鉄道は,1993年にエリトリアが独立した後,長期にわたる地道な復興作業の末に2003年に再開されたものです。その復興の様子は,NHKドキュメンタリー『希望のSL鉄道—若きエリトリアの国づくり』に描かれています。現在の路線区間は紅海沿岸のマッサワから首都アスマラまでの117km(図1)。往事は旅客輸送と物資輸送の両方に使用され,一日に38本の列車が運行されていましたが,現在ではおもに観光用に使われています。

エリトリア鉄道路線図

図1 エリトリア鉄道路線図

Adapted from Red Sea Railway: The history of the railways in Eritrea(p.1) by J. Street & A. Ghebreselassie, 2010, Silver Service Consultancy

起点のマッサワからマイ・アタル(29.9km地点)までは緩い勾配が続きますが,ギンダに向かうにつれ傾斜はきつくなっていきます。マッサワ−ギンダ間の最大勾配は30‰(パーミル*),ギンダ−アスマラ間では勾配が35‰に達します(図2)。ギンダ−アスマラ間は山脈を越えていくため,30箇所ものトンネルがあります。トンネルは最短のもので35m,最長のもので372mになります。この区間では,トンネルを抜けるたびに美しい景観が広がるのを楽しむことができます。特にアルバロバを過ぎるあたりからは,トンネルや橋を含む路線が曲がりくねり,車窓からの景観は圧巻の一言です(図3)。

各駅の標高

図2 各駅の標高


アルバボバからアスマラへ向かう区間

図3 アルバボバからアスマラへ向かう区間

Adapted from Red Sea Railway: The history of the railways in Eritrea(p.5) by J. Street & A. Ghebreselassie, 2010, Silver Service Consultancy

アスマラを過ぎると,北西に向かって104km離れたケレン(標高1390m)まで下り,さらに188.8km地点のアゴルダット(標高600m)までかつて路線はつながっていました。
 港から内陸に進むにつれ,自然景観ばかりではなく,文化的景観も変化します。港町マッサワはアラブ風建築やスーク(市場)の後,イタリア統治時代の豪奢な建築,エチオピア領時代の行政府の建物などが建ち並び(写真4),さまざまな外国勢力が去来した歴史を偲ばせます。街を行く人びとも,エリトリア人の他,イタリア人,パキスタン人,トルコ人など多様で,コスモポリタン的な賑わいを見せます。マッサワを離れ低地に向かうと,ティグレ民族が多く住んでいる地域となりますが,黒地に赤や極彩色の刺繍が鮮やかな衣装をまとうラシャイダの人びとにも出会います。ギンダを過ぎるあたりからはサホ民族も多く,女性たちは緑や黄色,朱色などの目にも鮮やかなスカーフで頭を覆っています。山脈にさしかかりアスマラに近づくにつれ,ティグリーニャ文化が色濃くなり,女性の民族衣装は白に一転します。そして,終点は首都アスマラ。かつて「リトル・ローマ」と称された街は世界遺産に登録されたイタリアのモダニズム建築が立ち並び,ジーンズ姿で颯爽と歩く女性の姿も増えます。マッサワからアスマラを辿るルートは,エリトリアの多様な民族と文化を一望できるルートでもあるのです。

ドームのついた建物はエチオピア領時代の「皇帝の宮殿」。独立戦争のさなかドームは一部破壊され,そのままになっている。

写真4  ドームのついた建物はエチオピア領時代の「皇帝の宮殿」。独立戦争のさなかドームは一部破壊され,そのままになっている。

*鉄道の勾配は,水平距離に対する高さの比率を,1000分率の‰(パーミル)という記号で表します。「勾配が35‰」とは,列車が1,000m進んだとき高度が35m上ることを示します。日本の鉄道の場合,登山鉄道などの特殊な区間を除けば,限界勾配は35‰とされています。

 

鉄道建設の歴史 — 建設と破壊,そして再興

アフリカ大陸で最古の鉄道といえば,1854年にアレクサンドリアに敷設されたエジプト鉄道ですが,東アフリカに限れば最も早くに建設されたのがエリトリア鉄道です。日本では戸川幸夫の『人喰鉄道』に描かれたウガンダ鉄道がよく知られていますが,ウガンダ鉄道の建設開始が1896年。エリトリア鉄道の着工はそれより9年早い1887年です。
19世紀後半,スエズ運河開通により,エリトリア周辺は通商拠点としての価値が高まりました。運河建設で財政難に陥ったエジプトが衰退したところに進出してきたのがイタリアです。イタリアは1881年にまず南部の沿岸都市アッサブに居留地を建設,1885年にはマッサワを占領し,マッサワを首都とするエリトリア植民地を形成しました。
さらに,マッサワと現首都のアスマラを結ぶべく,1887年にイタリアは鉄道建設工事を始めます。同年にマッサワ−エムクル間が開通し,1888年には25km地点まで,1904年にはギンダまで,1910年にはネファジットまで開通しました。最大35‰の上り勾配を持つ路線の建設は容易でなく,65の橋(写真5)と32のトンネル(写真6)も造らねばならず,アスマラまでの路線が完成したのは1911年12月のことでした。

橋の上を渡る蒸気機関車

写真6 橋の上を渡る蒸気機関車

トンネルをくぐり抜ける蒸気機関車

写真7  トンネルをくぐり抜ける蒸気機関車

 

その後も建設は続き,1922年にはケレン,1928年にはアゴルダットまで路線はつながります。1930年代には,マッサワからアスマラまで鉄道とほぼ同じルートにロープウェイが建設され,アスマラを第2のローマとして開発すべく,大量の資材が運搬されました。当時のイタリア首相であったムッソリーニは,エリトリア鉄道を隣国スーダンのカッサラまで延伸し,スーダン鉄道に連結するという構想をもっていました。その構想に従って,1932年にはビシャまで路線が延伸しますが,1935年に第二次エチオピア戦争が始まったため,計画は実現しませんでした。
 エリトリア鉄道の最盛期は1960年代です。年間で44.6万人の乗客と20万トンの貨物を運んでいました。その後,独立戦争が激化し,1975年にはエチオピアのデルグ政権により鉄道が破壊されてしまいます。また,レール・枕木などは塹壕を作る資材として散逸してしまいました。残念なことに,エリトリア鉄道の歴史はここでいったん停止してしまいます。
 しかし,エリトリアが1993年に独立を果たすと,鉄道の復興を望む声が強まり,1994年に大統領によって鉄道の復興を国家の優先事業とすることが宣言されました。しかし,工事を外国企業に委託した場合,総工費は当時の日本円で40億円という試算になりました。独立直後のエリトリア政府が用意できるのはその十分の一にすぎず,エリトリアは自力での鉄道復興を選択しました。
 戦争で散逸した資材を集めることはもちろんですが,人材も必要です。しかし,長きにわたる独立戦争のため若手の鉄道技師が育っておらず,イタリア統治時代の鉄道技師が招集されることになりました。技師たちはすでに高齢でしたが,政府の呼びかけに応じ,国内各地から参集しました。独立戦争のさなか,働き盛りながら現場を離れざるをえなくなった無念を抱いた老技師たち。彼らの復興への思いは並ならぬものがあり,長い時間はかかったものの,2003年にエリトリア鉄道が再開されたのです。(写真7)
  この老技師たちの奮闘は,1998年に放映されたNHKドキュメンタリー『希望のSL鉄道−若きエリトリアの国づくり』,イギリスの鉄道ドキュメンタリー“Rebirth of Railway”に詳しく描かれています。

修理されるリットリナ

写真7 修理されるリットリナ

 

レールと車両 — イタリア統治の残影と創意工夫

イギリスから鉄道技術を導入した国々(日本も含む)ではレールのゲージ(軌間)は1067mmが主であるのに対し,エリトリア鉄道は950mmのいわゆる「狭軌」です。エリトリア鉄道は,イタリアによって作られたため,当時のイタリアの工業規準で建設が行われたからです。一説には,当時のイタリアで供給過剰気味であった狭軌のレールを使用するためだったとも言われています。
当然,使われた機関車や車両も狭軌用のイタリア製車両となります。特筆すべきは,当時使用されていた車両が,一世紀前後の時を経ていまだ運用されていることです。煙を吐いて走る蒸気機関車は,マレー式機関車をはじめとする1920年~30年代製です(写真8)。その他,気動車としては,優雅なデザインのフィアット社製リットリナも残っています(写真9)。


蒸気機関車

写真8 蒸気機関車

フィアット社製リットリナ

写真9 フィアット社製リットリナ

さらにユニークな車両もあります。エリトリアの10ナクファ紙幣の裏面には,オペル川にかかる橋を渡る列車が描かれています(写真10)。しかし,よく見ると列車を牽引する機関車が少し変わった形をしています。実を言うと,これは「ウラル」と呼ばれるロシア製トラックを,レールの上を走れるように改造したものなのです。この他にもバイクを改造した整備用車両などもあり(写真11),自力復興における創意工夫の歴史もみてとれます。

ナクファ紙幣の裏に描かれた改造ウラル

写真10 ナクファ紙幣の裏に描かれた改造ウラル

 

バイクを改造した整備用車両

写真11 バイクを改造した整備用車両



人びとのエリトリア鉄道への想い

「バブルイ,バブルイ,アスマラの子をどこに連れて行くの?」
  これは,独立戦争のさなかに流行した歌の一節です。汽車に乗って戦場へと向かう青年達を見送る老いた母親達の悲しみを歌った一節です。バブルイ(Babrui)は,英語にすれぱmy trainとなります。バブルイという言葉には,厳しかった独立への日々を今なお思い起こさせる響きがあるのです。
 また,エリトリアの人びとは,鉄道のことを親しみを込めてAbo Dika(アボ・デュハ)と呼びます。これは「貧者の父」を意味するティグリーニャ語で,貧しい人びとでも鉄道を使えば遠方への移動も,大量の荷を運ぶことも可能となり,生活に大きな恩恵を与えることから来ています。

 エリトリア鉄道がはぐくむ自由な気風は,独立運動にも大きな影響を与えました。エリトリアには独立運動の象徴となっている2人の著名な指導者がします。クリスチャンのウォルデブ・ウォルデマリアムとイスラム教徒のイブラヒム・スルタンです。このうちイブラヒムはエリトリア鉄道に勤務しており,「カッポ・スタシオン」と呼ばれる駅長だったという経歴を持ちます。当時の鉄道職員は,イタリア人を初めとする外国人と働き,また国内各地から集められたさまざまな民族から構成されていました。日常的に他民族と協働し,各地を移動して見識を広めるという職場環境によって,非常に進歩的な気風が醸成されたことは想像に難くありません。実際,独立運動に際し,イブラヒムを背後から支え,運動に大きな影響力を与えたのはエリトリア鉄道の労働組合だったのです。

 最後に,エリトリア鉄道のロゴを紹介しましょう。ロゴは2つのティグリーニャ語とアルファベットでできています。ティグリーニャ語の鉄道名称はローマ字表記でMedri Baharとなりますが,左側の文字がMeを表し,右側の文字がBaを表します。この2文字と翼の生えた車輪がエリトリア鉄道のシンボルです。鉄道に乗れば,翼が生えたように遠くまで行けるという人々の思いが込められたロゴです。

エリトリア鉄道のロゴ

写真12 エリトリア鉄道のロゴ

人びとが特別な思いを抱き,独立と復興の象徴でもあるエリトリア鉄道。マッサワ−エリトリア間の117kmの距離で,美しい景観のみならず,歴史や文化を辿る旅を味わうことができます。



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