お知らせ

WikiLeaks-アメリカがエチオピアにソマリアを侵攻させたと暴露

2010年12月9日


2010年12月8日付け Foreign Policy In Focusにて、アメリカがエチオピアにソマリアへ侵攻するよう圧力をかけたことをWikiLeaksが暴露した、と報じられています。

WikiLeaks Reveals U.S. Twisted Ethiopia's Arm to Invade Somalia
FOREIGN POLICY IN FOCUS
http://www.fpif.org/blog/wikileaks_reveals_us_twisted_ethiopias_arm_to_invade_somalia

日本語暫定訳provisional translation

WikiLeaksがアメリカがエチオピアにソマリア侵攻をさせたと暴露

2006年後半にソマリアに侵攻した5万人のエチオピア軍は、全てのソマリア人が一時的に彼らの間の相違点に目をつぶり、外部からの侵入者に対して協力して戦ったため、当初予想していたよりも激しいレジスタンスに直面、2007年半ばまでに、泥沼にはまりこんでしまった。
ソマリアへの軍事的侵攻が徐々にこじれていくにつれて、アメリカは、1990年代にデンバー大学ジョセフ・コーベル国際研究大学院で教鞭をとった国務省のアフリカ担当ジェンダイ・フレイザーの下で、こう主張した:アメリカは、エチオピア侵攻に先立ち注意を勧告し、ワシントンはエチオピアにソマリアに対して武力を用いないようにと警告した。ジェンダイ・フレイザーは、同じくデンバー大学閥の強力な一員である前国務長官コンドリーザ・ライスに近い協力者である。フレイザーは、確かに、当時のメディアに対する多くのインタビューの中で、アメリカをエチオピア侵攻の責任から遠ざけようと試みていた。
しかし、WikiLieaksによりリリースされた外交公電のひとつは、異なった事実を示している。フレイザーが、エチオピア大統領メレス・ゼナウィに隣国を侵攻するよう圧力をかけたことに関わったという事実だ。この公電の内容は、the African mediaにおいて広く議論されている最中である。公電は、ソマリアに侵攻するアメリカ合衆国とエチオピアの間でなされた秘密取引を暴露している。
もしこれが正確なものであれば―そして正反対のことを信じる理由が何もなければ―この外交公電は、「2006年にエチオピアはソマリアに侵攻する意図は全くなかった、しかし、エチオピアを舞台裏で押して動かしたアメリカによってソマリア侵攻を促されたあるいはそうするよう圧力をかけられた(下線部原文ママ)」ということを意味している。当時すでにイラク戦争やアフガニスタンで泥沼にはまっていたブッシュ政権は、当時ソマリアで力を持ちつつあったイスラム法廷会議を粉砕するために、エチオピアがソマリアに侵攻するようにけしかけた。
エチオピアのソマリア侵攻当時、エチオピア軍の侵入が“ワシントン製”であることについてはほとんど疑問の余地がなかった。その他のWikiLeaks公電のように、この公電はジェンダイ・フレイザーがこの件に深く関与したことについて特定の情報を与えているわけではないにしろ、いままで一般に語られてきたことに対して確たる証拠を与えている(公電は、|(縦棒)の上部に点を足すことで明らかに「i」と認識させたり、横棒を足すことで明らかに「t」だと認識させたりするような役割をになった。
公電によれば、アメリカ国務省のアフリカにおける主要な代表であるフレイザーは、鍵となる役割を果たし、アメリカ国防省と連動して、結局はアメリカ主導の代理戦争となる事態の陣頭指揮をとった。フレイザーは、エチオピア人に攻撃させると同時に、アメリカはエチオピアの軍事行動を支持しないが、“ソマリアの脅威”は理解でき、エチオピアが戦争に至る理由も理解できると主張することによって、アメリカのメディア内での非難と、隠蔽工作の両方のために、下準備をしていた。
フレイザーは、ジハード戦士がソマリアを掌握する可能性があり、そうなるとエチオピアの安全が脅かされるとの噂を流布させた。メディア・パフォーマンスの帰結は、偽装行為と大差なかった。アメリカの軍隊は、エチオピアに侵攻の用意をさせ、軍事援助を与え、エチオピア軍に軍事訓練を与えてきた。そして2006年12月4日、CENTCOMアメリカ中央軍の司令官、John Abizaid将軍は“表敬訪問”と表現されたもののために、アディスアベバにいた。だが表敬訪問の代わりに、侵攻計画の仕上げが行われた。
ソマリア侵攻に際しては、ゼナウィ首相は、困難に直面した。ゼナウィ首相は、大量逮捕や、数百人の抗議者たちの殺戮や、国中の実質的に全ての反対派指導者の投獄などを含む、国内の反対派に対する数々の弾圧に対して高まる批判に直面していた。2006年の春までに、アメリカ合衆国議会の面前には、エチオピアの人権に関する記録が改善されない限りゼナウィへの援助を停止する法案があった。(ところで、彼の人権に関する記録は、それ以来改善されていない。アメリカとNATOが“対テロ戦争や、アフリカの鉱物・エネルギー資源争奪におけるエチオピアの戦略的な役割をどうみているかを考えると、西側のゼナウィ首相に対する支援は、近年になってからのみ増加している。
2006年に、ゼナウィ首相は、国内で縮小していく政治的基盤に直面して、権力を維持するためにアメリカの支援に頼り(多くの第三世界のアメリカの同盟国に見られることだが)、あきらかにフレイザーの圧力に屈服した。フレイザーがアフリカでのアメリカの代理戦争を扇動したのは、これが初めてのことではなかった。以前に、駐南アフリカの米国大使として、フレイザーは、ジンバブエのムガベ政権を転覆させるべく“有志連合”をつくったが、南アフリカのポスト・アパルトヘイト政府には受け入れられず、暗礁に乗り上げた。
ソマリアでの2006年の戦争は、アメリカにとっても、エチオピアにとってもうまくいかなかった。最近、国務省の報道官Donald Yamamotoは、ソマリア侵攻に対するアメリカの責任を遠まわしに認めながら、全体構想が“大きな誤り”であったと認めた。ソマリア侵攻により、2万人が死亡し、いくつかの報告書によれば、200万人のソマリア人が家を失った。5万人のエチオピアの侵攻軍は事態を楽観的にみていたが、実際には、ソマリア人の強固なレジスタンスに遭遇し、泥沼にはまり、すぐに尻尾を巻いて撤退する羽目になった。この侵攻の政治的な結果は予想されたものであった。一般的なより穏健なイスラム法廷連合が弱体化され、さらに反米的な意図をもつより急進的で好戦的なイスラム集団によってとって変わられた。

状況が悪化するにつれ、アメリカとフレイザー自身の果たした役割を隠すために、フレイザーは、ゼナウィに矛先を向け、かって知ったる外交トリック、あからさまな嘘を使って、彼女自身をこの失態から遠ざけようとした。いまやソマリア侵攻はこじれてしまったので、フレイザーは、トーンを変えて、彼女も、国務省もエチオピア人を攻撃に向かわせるどころか、侵攻を思いとどまらせようと制止したと、メディアで語りだした。WikiLeaksの公電は、まったく違う事実を伝えている。2009年に、エチオピア軍はソマリアにさらに大きな混乱を残して、3年間にエチオピア軍が来たときよりもさらに不安定化させて、ソマリアから撤退した。外部勢力がきては事態を悪化させて去っていくというのはこの地のパターンなのだろうか。

 

ライン

2010年12月9日
駐日エリトリア国大使館

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