先史時代

エリトリアのもっとも古い人類の痕跡は200万年前に遡り、エリトリアは地球上の人類誕生に近いところに位置していると言えます。アブドゥールの石器(12.5万年前のもの)が、海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことのもっとも古く、もっとも年代が明らかな証拠となっています。

バルカ渓谷で発見された道具は、紀元前8000年のもので、この地に人類が居住した最初の証しです。紀元前2000年に遡る岩絵も、いくつかの場所で発見されています。現在までに、エリトリア国内では北部のカローラから南東のベイルルにいたるまで51箇所の先史時代の遺跡が見つかっていますが、将来的には、さらに多くの遺跡が探索されるものと予測されています。

エリトリアの最も古い居住者は、おそらく、中央アフリカのピグミーに関係があります。中央アフリカのピグミーは、後に、はるか遠くのヌビア低地やアラビア半島から移住してきたナイロート語族、クシュ語族、セム語族と混交してきました。エジプトのファラオたちによって引用され、第1、第2王朝(紀元前2920~2649年)の時の大遠征の目的となった伝説の地、プントランドは、エリトリアにあった可能性があります。というのも、伝説のプントランドは、金、乳香、ミルラ(没薬)、ダチョウの羽毛、黒檀、象牙やその他の貴重な生活必需品に富む地であったからです。

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古代王国

アドゥライト時代(B.C.9世紀~A.D.5世紀):おおよそ1400年間の間、紅海の海洋都市国家アドゥリスは、商業と貿易の広域的な中心として機能していました。現在、考古学調査中のその他の重要な文化的中心都市も、エリトリア内陸部が、お互いに、またその他のアフリカ内陸部と交易によってつながれたこの時代に勃興してきました。なかでも、今日のアスマラ周辺の広範囲にわたる集落や、コハイト、テクホンダ、ケククセ(アディ・ケイ近郊)、メテラ(セナフェ近郊)、デル(ハルハル近郊)では、毎年さらに多くの発見がなされています。

紀元前3世紀以後からは、エリトリアの海岸沿いおよび高原地帯に、ギリシャ人およびエジプト人の狩猟・交易拠点が作られました。海岸の水域から採取された黒曜石(火山性ガラス)や、紅海のウミガメの甲羅は、この地域の商業において最も価値あるものの一つでした。また、内陸でとれるサイの角や、象牙、乳香や、カバの皮なども同様に貴重なものでした。

 

アクスム王国時代(A.D.1~9世紀):アクスム王国は、現在はエチオピア北部となっているエリトリア高原地帯に中心を持ち、約千年の間、隆盛を誇りました。3~4世紀の王国の最盛期には、アクスムの領土は、紅海を超えて現在のイエメンの大部分を含むまでに拡大していました。

当時、アクスム王国はビザンティン帝国と同盟を結んでおり、4世紀にキリスト教が北東アフリカ地域に浸透していく際の、いわば大通りとしての役割を果たしました。615年には、メッカでの勝利に先立って、預言者モハメッドがこの地域でビザンティン帝国に対抗するために、15人の従者をアドゥリスへ派遣し、これによってエリトリアは、最も古くイスラム文明と接触した非イスラム圏の一つとなりました。

アクスムは、7世紀に衰退し始め、200年にわたる国内および国外の圧力により、崩壊に至りました。エリトリア内のアクスムの領土の多くは、当時、スーダンから南方へ拡大していたベジャ民族によって征服されました。この時代にダハラック諸島ではイスラム王国が台頭しました。アクスム王国が崩壊していくにつれ、その主要言語であったゲーズ語は、今日のエリトリアで話されている2大言語のティグレ語とティグリーニャ語に分かれ発展していきました。

 

5大ベジャ王国時代(8~13世紀):4世紀には始まっていたベジャ民族は、スーダンに起源を発するクシュ系の人々ですが、紅海沿岸や、北西部エリトリア高地のアクスム王国領への襲撃を開始しました。5つの独立したしかし相互に連携したベジャの王国は、その最盛期には、エジプト南部からエリトリア北部~西部までその版図を広げます。ベロウ王国として知られるひとつの王国は、13世紀から16世紀に、エリトリア西部およびスーダン東部で隆盛を迎えます。もう一つの末裔であるヘダレブ(トゥブダウェという彼らの言語でも知られています)は、今日、エリトリア北部に住んでいます。

 

バハレ・ネガシュ時代(14~18世紀):バハレ・ネガシュ(“海の地”の意)王国は、14世紀にエリトリア高地にて興隆し、メレブ川から海岸にかけて広がり、現在のエリトリアの中心地域を含んでいました。王国の支配者である長老会議は、ゆるやかな族長連合を支配し、南方のアビシニア王国に朝貢していました。

18世紀に入り、一帯が百年以上続いた氏族間の戦国時代に入ると、バハレ・ネガシュの権威は揺らぎます。19世紀後半には、近隣のティグライ出身のアビシニア王たちは、エリトリア高地のいくつかの地区を自らの支配化におきますが、その支配も1880年代のイタリアの進出にともない終わりを迎えます。

 

オスマン・トルコ時代(15~19世紀):オスマン・トルコは、16世紀初頭に、紅海エリトリア沿岸に到達し、バハレ・ネガシュ王国から飛び領土を勝ち取ります。その後300年間、オスマン・トルコは、ハベシュ州と呼ばれた地域の主都になったマッサワ港を含むエリトリア北部の沿岸部の広い地域を支配しました。しかし、高原地域まで全てを支配しようという幾度かの試みにも関わらず、内陸地域の支配を維持することはできませんでした。

 

エジプト(1846~1885年):1846年に、モハメッド・アリは、オスマン・トルコのハベシュ地域の支配を奪い、隣接するボゴスおよびダナキルの独立した地域を併合することによって版図を拡大しました。エジプト軍もまたスーダンの町カッサラから、エリトリア西部に勢力を拡大しましたが、島嶼部へのさらなる進出に際しては、大敗を喫しました。1888年のマフディーの乱で、スーダンでのエジプトの支配が揺らいだ後に、エリトリアでのエジプト支配も倒壊に至りました。

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近代の植民地支配

イタリア植民地時代(1881~1941年):イタリアはエジプトの勢力が衰えると、1881年にアッサブに居留地を建設し、マッサワのある北方に進出するための基地として使用します。4年後に、イタリアはハベシュ地方を併合します。1890年の1月1日に、イタリアの王は、マッサワ港を首都とするエリトリア植民地を宣言します。

イタリアの南方のアビシニアへ進出するという試みは、1896年のアドワの戦いにてアムハラの王メネリク2世によって阻まれます。この直後に、メネリク2世とイタリアの王は、アディス・アベバ協定に署名し、メレブ川までのイタリアの領有を認めます。1年後、イタリアはエリトリアの首都アスマラまで進出します。

1930年代初期までに、エリトリアに新しい道路と通信ネットワークが敷かれました。マッサワとアスマラ、アゴルダットの西の内陸地域を結ぶ狭軌鉄道が敷かれました。首都と2つの港湾都市の周囲には、300を超える工房や産業ができ、地方には、多くの大規模な労働集約的農園やプランテーションが作られました。

しかし、イタリア人は厳しい人種差別を強い、混血も含む全てのエリトリア人の教育、仕事、社会福祉へのアクセスを厳しく制限しました。こうした施策によって、都市住民の間に、反植民地支配の気運が育っていきました。1935年には、イタリアはエチオピア、英領ソマリランドを征服し、イタリア領東アフリカと名づけた拡大植民地の中でエリトリアとともに統治しました。

 

イギリスの統治(1941~52年):イタリアのアフリカ帝国は、1941年にイギリスに率いられた軍隊による急襲に際して、瞬く間に崩れ去ります。この年の4月、ハイレ・セラシエが王位に復帰した後に、イギリスはエリトリアに軍政を敷き、イタリア植民地のものであった人材や資材を、連合軍の戦力に向け配備しなおします。

新しい統治者であるイギリスは、最初に新しい診療所や学校をいくつか開き、エリトリア人を地元警察に雇ったものの、従来の行政機構を大きく変えることはしませんでした。第二次世界大戦が終わると、イギリスは政治活動や労働組合、出版や政党活動のための枠組みを与える新しい制度的枠組みを許します。この時点で、廃止された前イタリア植民地は、新しく作られた国際連合のものとなります。

 

国連におけるエリトリア問題の討議:第二次世界大戦後、国連はエリトリアの帰属に関する問題を審議しました。エリトリアは独立を求めましたが、大国はそれぞれ今後のエリトリアにおける自国の利害を求めて競いあっていました。1941年の会戦でイタリアを追い払い、その後の統治者となっていたイギリスは、エリトリアをキリスト教地域とイスラム教地域に分けた上で、エチオピアとスーダンに分割する案を提出しました。しかし、この分割案は、エリトリアのみならず国連にも受け入れられませんでした。エチオピアはエリトリアを併合することを望み、アメリカもまたそれを望んでいました。アメリカの立場は当時の主要外交政策顧問ジョン・フォスター・ダレス(後の国務長官)の以下の発言に表されています。

「正義という観点から見れば、(独立を求める)エリトリアの人々の意見は考慮されなくてはならない。それにも関わらず、紅海における米国の戦略上の権益と安全保障・世界平和への配慮から、この国(エリトリア)は我々アメリカの同盟国であるエチオピアと連邦を組まされなくてはならない」
―ジョン・フォスター・ダレス,1952年

そして、国連において、エリトリアはエチオピアとの連邦制にするとの案が46対10で可決され、1952年9月15日に発効されました。

 

エチオピアへの併合(1952~91年):エリトリアは、憲法、独立した議会、国旗、二つの公用語(ティグリーニャ語とアラビア語)を与えられましたが、新しい国家はこれらの外部から押し付けられた制度さえ守る力はありませんでした。

連邦制が課された直後に、アメリカ政府はエチオピア政府とある協定を結びました。アメリカがエチオピア軍に装備と軍事訓練を与える代償に、エチオピアは、アスマラ(エリトリア)の基地とマッサワの海軍施設をアメリカに与えるというものです。こうして新たに強化されたエチオピア皇帝は、即座にエリトリアの制限された自治を廃止すべく動きをとりました。

続く十年間の間、エチオピアは、予防拘禁法を発布し、新聞編集者を逮捕、独立系出版社を閉鎖、目立つナショナリストを国外追放し、労働組合や政党を禁止し、エリトリア国旗をエチオピア国旗で置き換え、公の場や学校でのエリトリアの現地言語に使用を禁じ、利益の多い関税のエリトリアの取り分を差し押さえました。全ての産業も、アスマラからアディス・アベバに移転させられました。1962年11月14日、エチオピア軍は、エリトリア議会を強制的に解散させ、エチオピア皇帝が正式にエリトリアを14番目の州として併合しました。

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独立への闘争(1952~91年)

初期の抵抗:1950年代を通じて、エリトリア人はエチオピア連邦の廃棄と愛国的な気運に対するエチオピアの苛烈な弾圧に抵抗していました。しかし、国際社会からの反応は全くありませんでした。1957年、学生が大規模なデモを開始しました。1958年には、労働組合がゼネストを起こしました。エチオピアの軍隊は、抗議する者たちに発砲し、数人の死者と数百人の負傷者が出ました。この出来事により、多くのエリトリア人は、公の平和的な抵抗はもはや意味をなさないと悟りました。

弾圧の後、1950年代後半には、エチオピアの支配に対抗するために、亡命者の一団が地下組織としてエリトリア解放運動(ELM:Eritrean Liberation Movement)を立ち上げます。ELMはエリトリアの方々で、民衆の間の秘密裏の国民的運動になりましたが、武力での抵抗については戦略を欠いていました。

 

武装闘争:1960年7月、亡命者の一団がカイロで出会いエリトリア解放戦線(ELF:Eritrean Liberation Front)を設立し、武力闘争が独立獲得のための唯一の手段であると宣言しました。1961年9月1日は、旧式のイタリア製ライフルで武装したELFゲリラの小さな一団が、エリトリア西部のアダル山で警察部隊に対して、革命の第1発目となる弾を発砲しました。

その発端には、ELF内部でエリトリア社会をどう変革しエチオピアの支配から解放するかについての議論はほとんどありませんでした。ELFの指導者の中には、象徴的な武装蜂起が国連を介入に向けて動かすのではないかと期待する者もいました。しかし、エリトリアの併合は、国際社会の注目をほとんど受けませんでした。

 

エリトリア解放戦線(ELF):ELFは1960年代を通して、着実に成長しましたが、民族・宗教による派閥主義と内部対立により弱体化しました。ELFは、エリトリアの地方の多くにおいて、治安状況を崩壊させましたが、得たものを統合し再編成することに失敗しました。エチオピア軍が反撃し、市民を虐殺し、地方の村々を焼き払ったとき、何千人もの人々が隣接するスーダンに逃げ、数十年間そこに難民として残った人々もいました。これらの敗退は、ELF内部の不満の盛り上がりを加速させ、1968~69年には民主化を求める部隊が内部から運動を再構築しようと戦いELFは内部崩壊しました。

 

エリトリア人民解放戦線(EPLF)の誕生:崩壊していくELFから数百人の戦士をともなった3つの派閥が分派し、後にエリトリア人民解放戦線(EPLF)を生んでいく対話を開始しました。新しい運動は、民族・宗教の差異を超えて、より大きな社会的平等に到達することに重点をおきました。そうすることによって、解放運動は国家の自決に加えて社会変革にコミットしました。最初のうちのEPLFへのELFの攻撃は、新しい戦線の能力を発展さて、成長させることになります。

1974年9月、軍事委員会デルグが82歳の皇帝を放り出し、エチオピア連邦の秩序が崩壊した後に、ELFとEPLFの二つのエリトリアの戦線が停戦に至り、協同してエチオピア占領軍に銃口を向けました。EPLFは1977年の終わりまでにエリトリアの地方の大半といくつかの植民地の主要な都市を除いた全てを支配するにいたりました。しかし、ソビエト連邦のエチオピア側への大規模な介入により、解放戦線軍は、最終的な勝利を阻まれてしまいます。

 

エチオピアと超大国:初期には脆弱であったものの、エリトリアの革命は世界的なエチオピア支援者からの反応をエスカレートさせていきました。支援者とは、アフリカ、中東、ソビエト連邦南部を横断する通信を傍受する諜報基地、アスマラのカニュー基地を含む戦略的な利益をねらうアメリカに始まる超大国です。1976年には、アメリカのアフリカに対する援助の3分の2以上がエチオピアに向けられており、援助にはアフリカ大陸初となるジェット戦闘機も含まれていました。

しかし、メンギスツ・ハイレ・マリアム中佐に率いられたデルグが完全に権力を握ると、新政権はアメリカを追い出し、エチオピアをソビエト連邦と組み直させました。ソビエト政権は、すばやくエジプトをアフリカにおける卓越した同盟国として取り込み、軍事顧問や政治顧問、そして数十億ドルの新しい兵器をエチオピアに送り込みました。

1978年、エチオピアはエリトリアを再び占領するための大規模な軍事行動にでました。10万人以上の重装部隊が、エチオピアの基地やエリトリアの政府軍支配下の飛び領土、そして紅海沿いの水陸両用揚陸艇から、EPLFとELFの陣地に攻撃を仕掛けました。ソ連の顧問団は、EPLFがサヘル山岳地帯のナクファの町の外で前進を停止させるまでの6ヶ月間にわたる4つの大きな攻撃の計画と実行に大きな役割を果たしました。1979年の5度目の攻撃は、ナクファまで撃退され、エチオピア軍に大きな損害を与えました。

 

戦局の膠着状態:エチオピアが新しい戦闘に向けて用意しているときに、解放運動内は、不和によりが弱体化してしまいます。EPLFが統一を復活させようともったELFとの会談は不調に終わりました。1981年に新たな内戦が起こったときに、EPLFはELFの部隊をスーダンまで追いやり、そこでELFは競合する派閥に分裂しました。ELFのメンバーの中には、後にEPFLと和解し、エチオピアとの戦争に再び加わった者もいます。また、スーダンや移住先に難民としてとどまった者もいます。

1980年代のはじめには、非常に大規模な、しかし報告されていない戦闘がエリトリアで起り、何十万人もの部隊を数ヶ月に及ぶ軍事行動に巻き込みました。「赤い星(Red Star)」と呼ばれるエチオピアの6度目の攻撃作戦は、1982年初頭に4ヶ月以上も続き、最終的に撃退されるまで、軍事目標だけでなく市民に対しても日夜を問わない爆撃が続けられ、12万人の部隊がEPLF陣地への人海戦術攻撃を繰り返し、ナパーム弾や化学兵器が大量に使用されました。

 EPLFの戦士は、高度に要塞化され張り巡らされた掩蔽壕や塹壕に隠れながら戦力を最小化している間、エチオピア軍に3万1千人を超える負傷者を出させました。また、大量のソ連製兵器や装備を捕獲しました。同時に、敵陣の背後にいた機動隊は、軍事的攻撃を仕掛けるだけでなく人々を組織化し切望されていた社会事業を提供していました。

 

飢饉:1980年半ばには、戦争と飢饉が重なり恐ろしい人道危機を引き起こしました。エリトリアの多くの場所の人々が飢餓の瀬戸際に立たされるまでに、絶え間ない旱魃が脆弱な土地を焼き尽くしました。しかし、エチオピアはEPLFが支配する村々に援助が届くのを妨害し、災害の規模と範囲において、政治が中心的な役割を担っていました。寄付された食料の多くは、エチオピア軍の手に渡ってしまいましたが、国際社会は(再び)沈黙したままでした。

1985年までに、36万人のエリトリア人難民が、スーダンに逃れました。多くは戦争によってですが、飢餓による難民も増えていました。数十万人以上が国内で住処を失い、多くはEPLFからの援助によって生活を立てました。EPLFの人道部門であるエリトリア共済協会(ERA:Eritrean Relief Association)は、十分に設備がないものでしたが、非常に効果的な運営を行いました。

 

解放:EPLFは1980年代を通じて戦場でエチオピア軍との均衡状態に至っていました。1988年3月に、EPLFの部隊はアファベット近郊のエチオピア軍最強地点を襲撃しナドー軍を粉砕、十年間の膠着状態を終わらせ、包囲を逆転させました。ある48時間の戦闘で、エリトリアの戦士は、エチオピアの3つの師団を壊滅させて国の最大の補給基地を制圧し、翌年の供給に十分な重火器、弾薬、装備を入手しました。1990年2月には、EPLFは小型高速船を使って背後からエチオピア軍を驚かし、マッサワ港を獲得、エチオピアの陸軍を空輸を除く全ての補給から封鎖しました。

最後の戦闘は、1991年5月にデケムハレ近郊で起こり、その最中に、エチオピアの移り気な独裁者は、エチオピアらからジンバブエへ逃亡しました。エリトリアのエチオピア軍が敗退したとき、EPLFはアスマラに入城し、新国家建設のプロセスにつきました。4日後、アディス・アベバ政府は、TPLF(Tigray People's Liberation Front)に支配されEPLFに支援された反政府グループ連合であるエチオピア人民革命民主戦線に降伏しました。

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独立(1991~現在)

事実上の独立:1991年5月24日の、30年間の解放戦争の終結をもって、エリトリアは、法的にはまだであるものの、実質的には独立を果たしました。同時に、新しく組織されたエリトリア暫定政府(PGE)は、国際的に承認された主権国家への移行を扱う基本的な国の機構を作る一方で、国の破壊されたインフラを再構築に取り掛かりました。

戦争によってエリトリアは荒廃してしまいました。町の水や下水システムは、ほとんど機能していませんでした。数少ない舗装道路は、重い軍用車両によって破壊されていました。マッサワの港湾設備は、マッサワが1990年2月に解放された後の激しい空襲でひどい損傷を受けていました。鉄道は完全に取り壊され、鉄製レールは、塹壕を作るのに使われてしまっていました。

残っていたエリトリアの軽工業は、メンテナンスされていないか、四半世紀にわたって近代化されていないかのどちらかで、都市の失業率は労働人口の30%にも上りました。一方で、続く旱魃のせいで、地方の人々は飢餓の淵に立たされていました。戦争終結にあたり、エリトリアの300万人の人口の85%が、寄付された食糧援助に依存していました。世界銀行は、他のサブサハラ諸国の330ドルと比べて、エリトリアの一人当たりの収入を70~150ドルと見積もっていました。

 

住民投票そして国家承認:1993年4月21~23日、大衆教育、組織化、ロジスティクスの準備のための一年間の後に、112万5千人の有権者になる可能性のある人々が登録し、さまざまな背景をもつ傑出したエリトリア人をスタッフにした独立住民投票委員会が、エリトリアの政治状況についての住民投票を指揮しました。これらの適格者の98.5%以上が、エリトリア、エチオピア、スーダン、そしてはるか遠くの中東、ヨーロッパ、北米、オーストラリアの投票所で参加しました。

住民投票は、国連、OAU、アラブ連盟、非同盟運動、そしてエチオピアを含む十数カ国からの代表により監視されました。結果が開票されたとき、99.8%の投票者が独立を選択していました。スーダン、エチオピア、イタリア、アメリカ、そしてその他の国々の外交代表は即座にエリトリア国を承認しました。5月24日には、エリトリア暫定政府が、正式にエリトリアの独立を宣言しました。そしてすぐエリトリアはOAUと国連に加盟しました。

 

国づくり:国際的な承認を得ると、エリトリア政府は立憲政体への移行を管理するものと認証されました。新政府の行政、立法、司法部門に明確な責任が割り当てられ、憲法制定のプロセスを監督するために50人のメンバーによる憲法委員会が作られました。

エリトリアの植民地時代の10の州は、6つの平等な州に再編成され、地域の議会のための選挙を実施しました。新しい州政府は、行政および復興、発展に責を負い、開発に関する省庁(外務省、国防省、法務省、財務省、情報省以外の全ての省)は、州レベルにおいて運営上の機能を発展させました。

公務員制度もまた合理化され、再編成されました。公務員の管理機構は地方分権化され、公務員は行政区の役所に再配置された。この時期に、公務員は30%削減された。

この再編成の最中に、新しい国家はパスポート、様々なライセンス、郵便切手から通信システム、学校カリキュラム、道路・鉄道網、税金、貿易に関する政策まで、全てを計画しなければなりませんでした。これは、実質的には、新しい国家をゼロから作り上げる作業でした。

 

EPLF/PFDJ:1994年2月、EPLFは第三回議会を召集し、エリトリア解放という基本任務を果たしたことから、解放戦線を解散することを決定しました。この時に、代表者はEPLFの遺産の上に立憲政体への戦後の移行をリードしてくために、戦後の新しい政治運動PFDJ(People's Front for Democracy and Justice)を立ち上げました。

PFDJの基本的な目標は、そこで採択された国家憲章にまとめられているように、国の調和、政治的民主主義、経済的社会的発展、社会正義(経済的社会的民主主義)、文化再生、地域的国際的協調です。

国の開発戦略の三つの主要素は、1994年のマクロ政策文書に明確に書かれているように以下のようなものです。

・輸出向けの民間企業が反映する競争的な環境を作り出すことにより広く共有された、持続的な経済成長を引き起こす
・教育、栄養、健康管理、上水/下水システムに投資することによって、国民の技術と福祉を引き上げる
・地方のインフラ、農業、牧畜マネジメント、漁業振興に投資することにより、地方での貧困を削減する

 

憲法制定:独立後に設定されたエリトリア憲法委員会の50人のメンバーは、社会の幅広い領域から選ばれた。メンバーには、ELFのベテラン指導者と同様に、ほぼ9つすべての民族の代表が入っており、半数近くは女性でした。

1994年半ばに、憲法委員会の委員たちは国内外を旅し、重要な議論点についてエリトリア人の間で議論をもちました。議論されたのは次のようなことでした。公正や社会正義を推進する際の国の役割、新政府が持続可能な発展に向けてどのように国を舵取りしていくのか、政府の権力はどのように分けられるのか、また分けられた権力の間の関係はどのようなものか、大統領制または議会制、あるいは両者を結合させたものを持つかどうか、どの役人のポジションが指名制でどのポジションが選挙によるのか、立法府はどういった形態をとるのか、軍はどういった位置を持つのか、政党が持つ役割は何か、書類に正式に記されるべき公民権および政治的権利は何か、少数派の権利はどのように守られるべきか、女性の権利はどのように守られるべきか。1995年はじめには、憲法委員会は憲法制定に関して、多くの国の参加者からなる国際的なシンポジウムを開きました。

憲法制定のプロセスは、エリトリアのアイデンティティについての現存の国民的な合意を強め、様々な構成要素の間での団結を深めるように組み立てられました。すべての村々で木陰に会し、人々は基本的な権利や自由について議論しました。劇場や音楽グループは、こういった主題のパフォーマンスを演じ、複数の言語でラジオ番組が放送されました。また、憲法についてひろく宣伝されたコンテストが学生たちのために開かれ、市民の関心を刺激し、市民参加を高めました。

1996年に憲法草案ができた後には、人々が草案に意見を述べる機会を与えるための市民セミナーという段階がありました。1997年5月23日に、暫定国会、6州すべての州議会、海外エリトリア人代表の527人のメンバーからなる憲法制定会議が、草案を裁下し、憲法の下で国民選挙が組織された時点で、国を統治していく法的な枠組みとなりました。

 

再発した戦争:1996~1997年を通じて、エリトリアとエチオピアの間に、表面的には小さな政治経済問題についての緊張が生まれました。しかし、これらの問題は、エチオピアの北方のティグレ地域からエリトリア領への一連の武装襲撃によって悪化しました。1997年11月に、ティグレ州がはじめてエリトリアの重要な地域の領有を主張した新しい地図の公表によって、これらの事件の意味が明らかにされました。

不連続的な外交努力がこの深刻化していく危機を拡散することに失敗したとき、そして争点となっているバドメ村の近くで数人のエリトリア人職員が殺された一連の武力衝突の後で、エチオピアは、5月13日に全面戦争を宣言し、エリトリアへの全面攻撃のために軍を動員しました。6月5日、エチオピア軍の飛行機がアスマラの空港を爆撃しました。国際的な調停努力は、戦争に向かう動きを止めることに失敗し、国境沿いのいくつかの地点で地上戦がすぐに始まりました。

1998~2000年の戦争の三度にわたる戦闘は、何十万人もの負傷者を生み、100万人近いエリトリア人が住む場所を失いました。さらに7万6千人のエリトリア出身のエリトリア人とエチオピア人が、エチオピアから強制的に追放されました。エチオピアが2000年5月の最後の戦闘でエリトリア西部に侵攻したとき、エリトリアの防衛軍は、平原のより防衛しやすい地点に向けて戦略的撤退行い、エチオピアの不法侵入を停止させました。

 

和平に向けた歩み:戦争が膠着状態になっていたので、エチオピアは6月半ば、停戦に合意し戦闘を終わらせました。2000年12月12日、エリトリアとエチオピアは、アメリカ、EU、OAUの仲介の下、アルジェリアにおける包括的和平条約に署名しました。この条項の下、エリトリア内に国連平和維持軍により監視される25kmの暫定安全地帯が設定され、一方、両国によって前もってメンバーが承認された国際的な国境委員会では、争われていた国境が画定されました。また、独立した委員会が市民の補償請求を審査しました。

国境委員会がその結果を出し、2002年4月に最終裁定を下しました。そして両国がその結果を受け入れ、エリトリアは、戦争により家を失った多くの市民たちや、エチオピアから追放された人々、スーダンからの帰還難民の復帰や、包括的でコミュニティに根ざした再構築や開発のプログラムの中の戦闘員の段階的な復員にその関心を移しました。

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